教えのやさしい解説

大白法 495号
 
独一本門(どくいつほんもん)
 「独一本門」とは、日蓮大望人が説き弘められた本門寿量文底(もんてい)の大法である三大秘法の大御本尊をいいます。
 「独一」とは唯一絶待の意であり、「本門」とは釈尊の文上脱益(もんじょうだつやく)の本門ではなく、それよりもさらに一重立ち入った大聖人の寿量文底下種の本門を指しています。
 第二十六世日寛(にちかん)上人は、「依義判文抄」に、
 「問う、三大秘法並びに本門と曰(い)う、其の意(い)如何(いかん)
  答う、本門の言に於て且(しばら)く二意有り。一には本門寿量文底の秘法なり、故に本門と云うなり。二には久遠元初(がんじょ)の独一の本門なり、故に本門と云うなり。応に知るべし、久遠元初は唯是れ本門の一法にして更に迹(しゃく)として諭ずべき無し、故に独一と云うなり」(六巻抄 九四n)
と仰せのように、大聖人の説かれた「本門」には相待判(そうたいはん)と絶待判の二義が含まれています。
 相待判の義によれば、同妙に「一には本門寿量文底の秘法なり、故に本門と云うなり」とあるように、大聖人の説き弘められた「本門」は、脱益寿量品の文底の秘法であるゆえに「本門」といいます。
 この場合の「本門」は、法華経文上の本門を指しているのではありません。法華経本迹二門を束(たば)ねて脱益迹門に位置づけて、それに対する寿量文底下種の本門を指しています。 すなわち、相待判では、文上脱益の本門と文底下種の本門を相持し、文底下種の本門こそ真実究竟(くきょう)の大法と説き明かすのです。
 次に、絶待判の義によれば、先の「依義判文抄」の中で、「二には久遠元初の独一の本門なり、故に本門と云うなり。応(まさ)に知るべし、久遠元初は唯是れ本門の一法にして更に迹として論ずべき無し、故に独一と云うなり」とあるように、大聖人が末法に説き弘められた本門は、久遠元初の「独一本門」の大法であるゆえに「本門」というのです。
 『総勘文抄(そうかんもんしょう)」に、
 「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(御書 一四二九n)
と説かれているように、「独一本門」は久遠元初において御本仏が即座開悟(そくざかいご)された南無妙法蓮華経をいい、その本法は迹として相持すべき何ものもない、唯一絶待の「本門」の法体です。
 すなわち、絶待判によれば、大聖人の唱えられた南無妙法蓮華経は、久遠元初の「独一本門」の大法であり、末法は久遠元初と同様、「独一本門」の大法によってのみ即身成仏の大仏果を得ることができるのです。
 大聖人は、この「独一本門」の大法の実体を人法一箇(にんぼういっか)・三大秘法総在、本門戒壇の大御本尊として建立されました。
 私たちは、この唯一無上の大法を受持できたことに宿縁の厚きことを感じ、正しく信心に励んでいくことこそ肝要です。